ところがメンバーは中南米関係が多く、スペイン語はOKだが、フランス語、イタリア語はまるでだめ。ということで場所は南スペインのコスタ・デル・ソルを選び、その真んなかのマルベーリャがよかろうとスタートした。その頃コスタ・デル・ソルの地価はまだ安く、コンドミニアムが主体、ゴルフ場の会員券付きで計画された。
日本人も対象とするなら日本人向きのネーミングが望ましい。1968年、海外渡航が自由化されて間もないころ壽屋(現サントリー)のPR雑誌「洋酒天国」に掲載された「トリスを飲んでハワイに行こう」(山口瞳の傑作コピー)がハワイへのトラベル・ブームを巻き起こしていた。そのブームのお裾分けをしてもらい、まだ目を向けられていないコスタ・デル・ソルにも注目してもらおう、ということで付けられたゴルフ場の名前は、スペインにあるのにハワイ語の「アロハ」を採って「アロハ・ゴルフ・クラブ」とされた次第である。
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遠い日本からの申し込みはまあまあだったが、北欧の人々の関心は高かった。イギリスや北欧諸国の冬は寒く、陽光も乏しいので、11月から4月まではゴルフはできない。そこでこの期間にコスタ・デル・ソルのゴルフ場へぞくぞくとやってくるという次第、今でいうロングステイだ。当時の北欧の所得水準に比べスペインの物価は非常に安かったので、退職者に対する売れ行きは上々、産むは案ずるより易しであった。
マドリッドの夏はしばしば40度を超えるほど暑く、8月のバカンスシーズンには商店街のほとんどが店を閉める。もちろん行政機関も外国の大使館も開店休業。地中海性気候のコスタ・デル・ソルの夏の気温はホノルルより2〜3度低く、ほとんど雨も降らず湿度も低い最高のバカンスシーズンを迎える。
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現経済産業省(当時は通商産業省)北畑隆生次官は、1982年マドリッド大使館へ一等書記官として赴任された。バケーションには英気を養うためコスタ・デル・ソルに来られ、おそらくアロハ・ゴルフ・クラブでもプレーされたであろう。寒さを避けてやって来てレジャーを楽しみ、第二の人生をエンジョイしている北欧人、夏に大挙してヴァカンスにやって来る人たちを見られて、構想を得られたのであろう。任期を終えて通商産業省サービス産業室長として帰任され、1986年「シルバーコロンビア計画」を提唱された。日本人も老後は物価の高い日本ではなく、スペインやオーストラリア、カナダ等で経済的で優雅な第二の生活が送れると――。この構想は新聞、雑誌に取り上げられ、一気に人気が沸騰した。
ところが対象とされた英語圏のマスコミの反応は必ずしも好意的ではなかった。ワシントン・ポストの如きは、日本では歳をとって働けなくなった老人を山に捨てる「姥捨て山」という民話があるが、シルバーコロンビア計画とは「海外姥捨て山構想」かと皮肉なコメントをする始末である。
いったん旗を下し、海外滞在型余暇研究会として発展方向を検討されることになった。そして1992年に満を持して設立されたのが「ロングステイ財団」なのである。「老人輸出」と海外のジャーナリズムから皮肉られた事情も配慮し、日本に生活根拠を置き海外で長期滞在をすることをテーマとしている財団である。
余談であるがロングステイの産みの親、北畑次官は発想の人である。その後、茨城県商工労働部長として出向されていた時も、商店街の娯楽といったらせいぜいカラオケとパチンコしかない人口4万人の鉄鋼業を中心とする地方の工場の町、鹿島市で鹿島スタジアムを推進建設し、鹿島アントラースを発足させ若者を引き付ける魅力ある街とし大成功をおさめたプロジェクトを発想し、計画、推進の中心となった人である。
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私は1994年3月で退職する時期となり、さて第二の人生をどうしようかと悩んでいた。ところが93年11月に新宿で急性心筋梗塞で倒れてしまった。幸いにも心臓では評価の高い東京女子医大に救急車で搬送され即刻手術されてなんとか命をとりとめた。
退院時、血管系の病気再発を防ぐ最善の対症療法は1週間に2〜3日は1万歩散歩することとの主治医のご託宣であった。春から秋までの散歩は住んでいる東京西郊の清瀬市には川沿いの路や武蔵野の森林があり、朝の散歩は爽快である。しかし寒い冬の散歩は心臓の既往症を持つ者にはよくない。暖かいところへ行きたいが日本の冬は鹿児島でも雪が降るし国内の生活費も高くつく。
当然、コスタ・デル・ソルも考えた。しかし20時間近くのエコノミークラスの空の旅、オリンピックや万博も開催され、ECにも加盟したスペインの経済発展を考えると、衰えた体力、年金生活者としては無理な話である。どうも若い頃考えていたように行きそうもない。年は取りたくないものだ。
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ある日、松本清張の「熱い絹」を読んでいたところ、この小説の舞台として描写されているマレーシアのキャメロン・ハイランドのことを「そこにはゴルフ場があり、ホテルがあり、別荘がある。軽井沢と似ている」と書かれていた。マレーシアなら6〜7時間の旅である。
1995年にはほとんど病気を心配しなくてもよい状態まで回復したので、キャメロン・ハイランドに下見に出かけた。ホテルは冷暖房を必要としないほど年中涼しい気候に恵まれ、英語はどこでも通用し言葉に問題なく、治安もよく、食事は中華、インド、マレー料理と変化に富んでいて美味しい。それになにしろホテル代、食事代が日本の五分の一である。
1996年から毎冬、避寒保養に出かけた。ところがキャメロン・ハイランドの中心の町タナラタでまったくといってよいほど日本人を見かけなかった。ホテルは短期旅行客ばかり。そこで北欧人、豪州人の長期滞在者の巣である「キャメロン・ホリデイ・イン」というゲストハウスを定宿にした。ところが食習慣の違う彼らと美味しい中華料理を突つき合うこともできず、馬鹿力のある彼らとゴルフのパーティーを組むのも難しい。なんとか日本人シニアの仲間がほしいなあと考えていた。
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